前々回のお話に出てきた、会津武家屋敷の入口です。 家老だった西郷頼母のお屋敷がメインになっていて、建物の中に入ることはできませんが、昔のおトイレやお風呂がそのまま保存されていて、興味深かったです。 飯盛山の入口です。石段をまっすぐ上ったところに「白虎隊十九士のお墓」があります。 石段の手前に白虎隊記念館があって、さりげなく「らくな参拝順路」と書かれています。じゃあ、こちらから……ということで、記念館を見学したあとは厳島神社のほうへまわりました。 鳥居の手前の右側には、子育地蔵尊のお堂があって、4体のお地蔵さんが祀られていました。左側には可愛らしい弁天様像がありました。 明治の初期に厳島神社となったそうで、その前は正宗寺というお寺だったそうです。今でも仏様の「気」を色濃く放っていました。 すぐそばには「戸ノ口堰洞穴」がありました。(奥に見えるほら穴です)用水堰、と案内板に書かれていました。白虎隊士たちがここへ逃げてくる時に潜った洞穴でもあるそうです。 さざえ堂という変わった建物もありました。 内部はこのように、斜めになった床を上って行くようになっています。 ところどころに小さなスペースがあったりもして、 てっぺんはこんな感じで、床がアーチ状になっていました。 上まで行くと下るわけですが、上りと下りの通路は別になっていて、一方通行です。 絵が飾られていたり、神棚もありました。 神社とさざえ堂のほうから行くと、石段の大部分をパスできるので本当に楽でした。こうして「白虎隊霊場」に着きました。 霊場の一角にあるこの道から自刃の場へ行きます。 スペースが確保されているこの場所以外は一般のお墓でした。 「白虎隊士石像がのぞんでいる方向が鶴ヶ城です」と書かれていて、どれどれ? と見てみると…… 町が遠くてよくわかりません。現地ではどこがお城なのか、見つけることができませんでした。 で、帰ってきて、写真を拡大してやっと見つけました。〇で囲んでいるのがお城です。もう本当に、すっごーーーく遠いです。手前でガンガン町が燃えいたら、煙などで見えにくいということがよくわかりました。 左側石段の奥に並んでいるのが白虎隊士のお墓です。 正面から見るとこんな感じです。 会津藩の子どもたちには「什の掟(じゅうのおきて)」というものがあったそうです。 私は知らなかったのですが、白虎隊記念館で知りました。 同じ町に住む6歳から9歳までの藩士の子どもたち続きをみる
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